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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
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                                      第二節 南アジア文明と麦・米

 
ここでは、インダス文明とガンジス文明を総称して南アジア文明ーインド文明としている。一般的に、インド亜大陸の食生活は、「東部の米、西部の小麦、そして中間の雑穀(モロコシ、ヒエ、トウモロコシ?)の三つの地帯に分けられ」(湯浅赳男『文明の人口史』163頁)ている。

 
以下、インダス文明は麦を起動力に興り、ガンジス文明は米を起動力に勃興したことを考察している。

                                       第一項 インダス文明と小麦


 前2600年頃、インダス河流域を中心に、「モヘンジョ・ダロやハラッパーといった計画的な都市遺跡に代表される、インダス文明が成立」(『古代オリエントの世界』古代オリエント博物館、山川出版社、2009年、69頁)した。このインダス文明は「年代的には、シュメール、エジプトについで、第3番目の古代文明」であり、ハラッパの諸都市はシュメール、エジプト文明よりも「およそ1000年おくれて成立」(中島健一『河川文明の生態史観』149頁)した。

                                              1 インダスの自然
  
 気候 紀元前7000−2000年、「アラビア海からの南西モンスーンの北上にともなう夏雨期間が長くなった」結果、湿潤な気候になった(中島健一『河川文明の生態史観』132頁)。

 しかし、自然は基本的には半乾燥帯であり、しかも降雨量は各地一様ではなく、「それぞれの地域が、環境に適応しながら生産活動をし、その余剰を元に一定の役割を担って文明を形成」し、麦作・家畜飼育の農耕を行なっていた。各地の降雨量を見ると、「インダス川下流域のシンド地方」(モヘンジョダロ)の年間降雨量は100ミリ、「中流域のパンジャーブ地方」の年間降雨量は500ミリ、西のバローチスターン丘陵の年間降雨量は100ミリ未満、南東のグジャラート地方の降雨量は800ミリである。そして、カッチ地方は「浅い海が広がり、季節によって干上がり一面の塩原となる」(近藤英夫編『四大文明 インダス』105頁)のである。

 二つの大河 メソポタミア文明にチグリス、ユーフラテス川という二本の川があったように、「インダス文明にも、インダス川とガッガル・ハークラー川があり、この二本の川によって、都市文明が栄え」(近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、100頁)ることになる。「インダス、ガッガル・ハークラー( サラスヴァティー)両河川が開析した、大沖積平野における農耕生産」が、インダス文明の「存立基盤」(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、25頁])であった。

 さらに、「インダス川の中流域は五つの川が流れる五河地方(パンジャーブ)」となり、「歴史を通してつねに一つのまとまった地域となっている」(辛島昇「新しい歴史解釈と南アジア」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、6頁])のである。

                                             2 農耕の開始

 メソポタミア文明との関係 メソポタミア文明は、「前3500年頃のウルク期に成立」し、インダス文明は「メソポタミア文明より約1000年の後、前2600年頃誕生」(近藤英夫編『四大文明 インダス』184頁)した。紀元前2350年、メソポタミアのアッカドのシャルキーン(サルゴン)王碑文に、メルッハ(インダス文明地域)の船がアッカドの波止場に停泊させているとあり、以後、前1800年頃までメルッハという語がでてくる(近藤英夫編『四大文明 インダス』103−4頁)。

 また、インドのパンジャブ地方から「動物や一種の絵文字を刻んだ非常に古い印章が出土」し、「メソポタミアの初期文化層の発掘からまったく同じタイプの印章が出土」しているから、「前三千年紀にインドの一部とメソポタミアの間に交易関係が存した」(キエラ前掲書、220頁)ことが確認される。また、インダス文字、「碁盤の目状の整然とした道路網」などには、メソポタミアの影響がある(H.ウーリッヒ『シュメール文明』141頁)。メソポタミアとインダスとの間には、古くから交流があったのである。

 さらに、エジプト・メソポタミアのような「乾燥したところでは、農作業の最も重要な目的は土壌水分の保持」にあり、鈎轅犂はこれに最適であった。インダス地方では、「インド最古のヴェーダ文献によれば、犂は一般にウドゥンバラ樹の曲がった材木を用い、尖端に金属製の刃がつけられ」、「エジプト・メソポタミア文明圏に含めた方が適当」なものであった。こうしたことから、飯沼二郎氏は中近東の定着農業がインダス地方に伝播したとする(飯沼二郎「世界農業史上における古代パンジャープー早地農業の位置について」『人文学報』20号、京都大学人文科学研究所、1964年)。

 考古学的には、以上のごとくメソポタミア文明とインダス文明が関係があったのである。しかし、両者の関係は、「インダス文明は性格的に余りにも個性が強く、単にメソポタミアよりの植民者のそれとみることはできない」(モーティマー・ウィーラー、曾野寿彦訳『インダス文明』みすず書房、昭和41年、205頁)とみてよいだろう。「インダス文明もメソポタミアとは一時期活発な交易活動を行っていた」が、「インダス文明の興起そのものを、メソポタミア文明からの文化伝播に求めるのにはやはり無理がある」(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、20頁)ということだ。

 農耕の開始ーバローチスターン丘陵 バローチスターン丘陵の小河川沖積地もしくは扇状地では、前7000年頃から、「栽培種の小麦・大麦と、家畜化された羊、山羊、牛の骨が出土」している。ここに始まった農耕が「各地に農耕村落を成立させ」、前3千年紀初頭までにインダス平原部にコート・ディジーなどの町邑を成立させ、「各地域の町邑を糾合するかたちでインダス文明が成立する」(近藤英夫編『四大文明 インダス』105頁など)のである。

 Ta期(前7000年頃ー前6000年頃)から、メヘルガル(「バローチスターン丘陵北部の中心都市クエッタからインダス平原の西端へと流れ込むボーラン河畔に位置」)では、「二条大麦、六条大麦、一粒小麦、二粒小麦とパンコムギの麦類と、これらの作物を狩り取るための小さな石器をいくつもはめ込んで作られた鎌や、収穫した麦を擂り潰すための石皿や磨石」が作られ、家屋は5×4mの四角い日干し煉瓦建物である。Tb期(前6000年頃ー前5500年頃)の層からは、冬作物の麦類に加えて夏作物のナツメの種子や、家畜動物(牛、羊、山羊)の骨が出土している。「家屋は大型化し、各部屋に暖房と調理場を兼ねた炉と穀物を製粉するための磨石・石皿が発見される複数の部屋から構成されるやや複雑な建物」となる(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』193ー5頁])。0.3ha以上の「円形の集落」が登場する。

 こうしたバローチスターン丘陵での農耕開始は、メソポタミア農耕と関連があったのであろうか。この点、ジャレドは、前7000年ー前6500年、「イラン経由で肥沃三日月地帯から」インダス川流域に「農作物が持ち込まれたのが引き金となって、土着の野生種が独自に栽培化」(ジャレド・ダイアモンド゙著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上)』草思社、2000年144−5頁、『古代オリエントの世界』古代オリエント博物館、山川出版社、2009年、68頁)されたと指摘している。一定の交流の中で、双方が独自な展開を示すという形で展開してゆくのであろう。

 前3000年代前半、バローチスターン丘陵の中部から北部の各村落で、「白・黒・赤を用いて複雑な幾何学文を描く多色彩文土器」などが使用され、村落間の交流が深まった(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』196頁、辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、29頁も参照)。前3000年代後半、「農耕生産力を次第に高め」「小地域を主導する盟主的な町」、つまり「バローチスターン丘陵北部からインダス川流域に接するゴーマル平野に下り立った場所」にラフマーン・デーリ(南北550×東西400m)が登場した。前3000年前後から前2000年代前半、「バローチスターンの農耕文化社会の中部から北部一帯」に「文化的結合の動きが再度強まる」のである(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』196ー7頁])。

 バローチスターン丘陵クエッタのダンブ・サダートVA期に、儀礼に必要な「半地下式の貯蔵用の穴」と「排水溝」が備わった、泥レンガの「巨大な基壇」(高さ6m、幅9m)が出現した。VB期には、この「基壇は拡大され」「城塞的な儀礼を行う場所」なる。こうして「バローチスターン丘陵」は「記念建造物をつくり上げて、地域的求心力を強めていった」(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』197頁])。

 Y期には、メヘルガルでは、200haの町の周囲に「日干しレンガ(10×25×50センチ、10×22×45センチで統一)でつくられた稜堡で補強された長方形の壁」、貯蔵庫、「レンガ敷き製粉施設」(198頁)が築かれた。Z期には、「100個以上の壺が収められた半地下式の貯蔵室をもつ建物」が登場し、「市街の中に大量に穀物が集められ」、泥レンガの巨大基壇(300u以上)が出現した。このように、メヘルガルでは、「バローチスターンの農耕文化が、村落社会から都市社会への脱皮」を示してきた(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』198頁])。

 バローチスタン南部でも、「アムリが、丘陵の最も東端まで進出した丘陵地域の文化として展開」し、Tc期には、「6haの遺跡全域に居住域が広が」り、「内部が小さく仕切られた穀物貯蔵庫」が数多く出現し、Ub期には、メヘルガル同様に「町は壁に囲まれ、内部には日干しレンガでつくられた基壇を持つ社会」が登場した(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』1200頁])。

 このように、前2500年頃、バルーチスターン一帯に「一つの大きな変化』が現れ、「ムンディガク(W期)などでは、日干煉瓦による突角堡を備えた周壁をもつ大きな町」が登場し、「このころ、イラン高原ではほとんどの集落に編年上の断絶がおこり、もしくは集落の規模が縮小して、活発な交易活動のあとも見られなくなってしまった」(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、31頁)のである。

 それは、まさに「断絶」であった。バローチスターンの農耕文化は「直接インダス文明を生み出した」のではないのである。「町段階のバローチスターン文化遺跡の上層では、つねにインダス文明の土器がバローチスタ−ンの土器と混じって出土」しており、「バローチスターンの農耕社会が衰退していくときに、それぞれの地にハラッパー文化がやって来た」(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』200頁])と推定されるのである。

 初期ハラッパ文化 バローチスターン農耕が町を生み出していた前2000年代前半、「この大地に進出した遺跡群の中から、パンジャーブ地方南部からガッガル・ハークラー涸河床沿いとシンド地方北部までの広範な地域に」、コート・ディジー文化という「初期ハラッパ文化」が生まれた。この初期ハラッパ文化は、コート・ディジーのみならず、カーリーバンガン、ソティ、シスワルにも見られ、こうして初期ハラッパ文化は「大河の氾濫がつくり出したインダス平原地域に現れ」「肥沃な沖積地の開発を急速に行い、権力機構の存在を示す城塞を市街地と分離して持つ多くの町を生み出した」(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』201頁])のである。

 「初期ハラッパー文化とインダス文明の間」に「農業技術に大きな転換」があった。スールコータダーでは、「インダス文明より遡る時期に城塞部を持つ都市が営まれ、インダス文明以前より海岸に位置した交易を行う町があった」が、「その町の形は、インダス川流域部の城塞と市街地が東西に分離されたものとは違い、城砦部と市街地とが内部で分離されながらも、全体がひとくくりされた壁で囲まれていた」(宗台秀明「文明への長き歩みーインダス文明前史」[近藤英夫編『四大文明 インダス』203頁])のである。

 こうして「丘陵部で行なわれていた農耕」が、前3000年頃の初期ハラッパ文化期に、大河流域(インダス平原部)にまで拡大し、「コート・ディジー、ラフマーン・デーリ、さらにはハラッパ、カーリーバンガンなどの町邑が展開しはじめ」た。この地域では、「文明成立以前に、十分に都市を抱える準備ができてい」て、「それまでの伝統的集落(たとえばメヘルガルなど)が衰退し、かわってインダス文明の集落があらたに勃興」した。

 一時期コート・ディジ文化などはハラッパー文化と共存し、やがて「とって替わられた」のである(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、36頁)。つまり、「インダス文明の都市期以前、インダス平原部には、本質的にバルーチスターン諸文化のうちの一つとみられるアムリ文化のほかに、・・カーリーバンガン下層、すなわちソティ文化を典型とする北方の諸文化と、コト=ディジTを典型とする南方の諸文化とが存在していた」のであるが、コト=ディジやカーリーバンガンでは「周壁を備えた大集落を生み、平原部の開発によっていっそうの生産性を高めてい」き、「新来のハラッパー文化と一時期共存してのち」に、ハラッパー文化に「文明への途」を託したのである(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、42頁ー3頁)。

 インダス都市誕生の原動力 インダス文明では、「以前には見られなかった、80haを超えるような大規模な都市遺跡が出現」し、モヘンジョダロの大沐浴場、ドーラーヴィラーの巨大貯水槽、ロータルのドックのような大規模建造物も登場し、インダス文明が初期ハラッパ諸文化期から劇的変化で登場したことを示している。こうした「文明への最後の飛翔の様相」は不明とされているが、大規模建造を担ったのが多数労働者であり、それを支えたのが農業生産力増加であれば、根底において、農業面で「根本的変化」があったと推定するのが妥当であろう(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、31頁])。

 その農業上の劇的変化とは、一言でいえば、農業生産性の飛躍的増大であろう。この点、「インダス川は、とくに下流のシンドでは、ナイル川とちがって毎年の氾濫規模が一定せず、そればかりか、しばしば著しい流路変更もした」ので、「昨年の可耕地は、もはや今年の耕地ではなかったということも起こりえたであろうし、収穫量も不安的であったろう」が、インダス下流では「条件さえそろえば、まれにみる大収穫が期待」できたので、「インダス文明の成立が『爆発的』」におこりえたのである(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、89頁)。だが、農業飛躍のみならず、ペルシァ湾内海「交易の果たした役割も大き」く、「それによって富を蓄積したり、新しい知識を導入した」ことを評価する意見もある(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、92頁)。だが、農業生産力あっての海上交通であり、あくまで基底力は農業生産力の飛躍的変化と見るべきであろう。

 氾濫 インダス諸都市は「すべて河川に沿った沖積地に位置」し、「インダス文明の初期農法は、水路を用いない氾濫農耕」であった(近藤英夫編『四大文明 インダス』163頁)。

 インダス川の流水量は、雪解けの3月から増し、8月に溢流が広大な平野を潤し、10月までに減水する。インダス川の氾濫は「荒々しく、突発的」に起き、「獅子の河」(Lion River)と呼ばれる。「季節的に水かさを正確に増減するナイル川とちがって、インダス川の氾濫は、チグリス・エウフラテスや黄河の氾濫パターンによく似ている」(中島健一『河川文明の生態史観』136頁)のである。インダス川の勾配は15cm(メソポタミア両河は6−7cm、ナイル川は10cm)と多少高いが、「広大な氾濫原をゆるやかに流れ」「河底にはたえず多量の泥砂を堆積して河床を上げ、凸型の天井川を形成」している。そして、「雪解けによる増水の季節」に洪水が氾濫原に溢流し、「インダス本流に流れこんでゆ」き、「氾濫のさいの泥流によって、河床や氾濫原にはいたるところに泥砂の小起伏を形成」し、「翌年の氾濫によって洗い流され、また、新しい起伏をつくる」(中島健一『河川文明の生態史観』137頁)のである。

 インダスでは、農民は、「季節的な氾濫の溢流をそのまま灌漑農業に活用し、灌排水のための運河や溜池を築造することもなく、高度の都市文明を築きあげてきた」(中島健一『河川文明の生態史観』138頁)のである。

 灌漑 インダス地方では、紀元前3千年紀中頃、「北部や西部地方の丘陵地帯」から「流水量の減少してきた五河地方やインダス川の肥沃な氾濫原」に移住しはじめた(中島健一『河川文明の生態史観』201頁)。インダス川は、凸型の天井川だったので、増水は、「辺縁の乾燥地帯に吸い込まれ」たり、「本流にかえったり」して、「ひとりでに排水される地型的な好条件に恵まれ」、この自然的な「畑作土壌の脱塩」で「600年間にわたって、たかい農業生産力を保つ」ことができ、「南のサバルマティ流域の諸都市をふくめて1000万ちかい人口」を扶養した(中島健一『河川文明の生態史観』201頁)。

 紀元前2350年ー1700年の650年間、灌流灌漑が都市文明をささえた。インダス文明の成立した紀元前2350年は「最後の亜降雨期の終末」であり、「パーキスタンの西部や北部地方の丘陵斜面にひろく分布していた半遊牧の農耕民たちは、それまで移住を拒んできた低地地方の亜熱帯・熱帯のジャングルや湿地が乾燥しはじめ、また、荒れ狂う“獅子の河”の流水量もしだいに減少しはじめた」のを幸いに、新しい土地と水をもとめて、河谷の沖積平野に移住しはじめた」らしい(中島健一『河川文明の生態史観』145頁、146頁)。

 こうしたインダス川流域の灌漑農業は、「主としてモンスーン期(6−8月)における氾濫のあとに堆積する肥沃な土を耕すという方法でおこなわれ」、「主要な作物は冬作の大麦、小麦、豆類であるが、一部の地域では夏作である雑穀(シコクビエなど)の栽培に依存」し、また「夏冬の二毛作もみられ」た(山崎元一「インダス文明からガンジス文明へ」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、27頁])。

 この灌漑冬作は、 「モヘンジョ・ダロ遺跡を中心としたシンド州」では、「75%以上を占め、とくにオオムギとコムギだけで50%を大きく上回」り、「ハラッパー遺跡を中心としたパンジャーブ州」では「60%ほど占めるが、オオムギとコムギの占める割合は25%程度で、レンズマメやエンドウなどの豆類の栽培も多い」のである。このシンド州・パンジャブ州二地域では、「インダス川の水位が上がる冬の時期に、灌漑を利用してムギ類などが栽培されている」(長田俊樹「インダス文明ははたして大河文明か」同上書66−7頁)のである。この地域では、「秋に種を播」き、「冬期の小麦、大麦を中心とする穀物農耕が基本」なのであった(近藤英夫編『四大文明 インダス』163頁)。

 グジャラート州(夏作物) 近年、こうしたインダス川の氾濫灌漑の冬作物とは別に、モンスーンそれ自体による夏作物を指摘する研究がある。

 つまり、「インダス文明を支えた農業に大きな影響を及ぼすの」は、インダス川の氾濫灌漑のみならず、「6月半ばから9月半ば」のモンスーンそのものであるというのである。この地域の農業は、「灌漑による冬作(ラビ、オオムギ、コムギ、エンドウ、レンズマメ、ヒヨコマメ)」と「モンスーンに支えられた夏作(カリーフ、イネや雑穀類[モロコシ、アワ、キビ、シコク])」と分けることができるというのである(長田俊樹「インダス文明ははたして大河文明か」[秋道智弥編『水と文明』昭和堂、2010年、66頁])。

 後者のモンスーン夏作は、「ドーラヴィーラ遺跡をはじめとするグジャラート州カッチ県」では、「冬作物(40%)よりも夏作物(60%)の方が多」く、「冬作物のコムギとオオムギは10%ほどなのに対し、夏作物のイネ、キビ、アワで40%を占めている」とする。長田氏は、「これは、インダス文明を支えた作物はオオムギ、コムギだという、これまでの概念を打ち破る」とする(長田俊樹「インダス文明ははたして大河文明か」同上書67頁)。また、「ハリヤーナー州ファルマーナー遺跡とグジャラート州カッチ県のカーンメール遺跡では、炭化されたイネの種子が発見されてい」て、「その量は主食と断定できるほど多いわけではないが、ともかく、ガッガル川流域やグジャラート州カッチ県では、インダス文明期にイネが栽培されていたことになる」(長田俊樹「インダス文明ははたして大河文明か」同上書68頁)と指摘する。だが、これはインダス文明の主流ではないし、この稲作が畑作なのか、水田耕作なのかは不明であるし、夏作物が冬作物に対して圧倒的比重を占めているわけではない。この稲作は、のちのガンジス川米作の源流の一つとして重要な意義をもつのではなかろうか。

 こうしたモンスーン農耕は、南部バルーチスターンからシンドなど、「河川を離れた丘麓」などでも行われており、ここでは「地形を利用した堰堤が築かれ、その中へ雨期の出水を流入させて沈殿土を得て、土壌づくりをしていた」らしい。しかし、こうした堰堤農耕(ガバルバンド)よりも上述の如き「氾濫原を利用した生産の方」が、「一回の収穫は多かった」(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、88頁)ようだ。

 小麦・大麦栽培 「インダス西岸のシンド地方の氾濫原」「北方のパンジャーブ南部」が「肥沃な農耕地帯」であり、やはり「その主要な農作物は小麦や大麦」(中島健一『河川文明の生態史観』153頁)であった。ハラッパでは、小麦(パンコムギTriticum compactum、裸コムギT.sphaeroccoum)、大麦(六条オオムギの一種Hordeum vulgare)、マメ、「家犬、コブ牛、水牛」の遺物、モヘンジョダロからは、「メロンの種子」、「ゴマの種」、「ナツメヤシの核」、「綿布の痕跡」、「樹皮の繊維」(モーティマー・ウィーラー、曾野寿彦訳『インダス文明』みすず書房、昭和41年、137ー8頁)などの遺物が発掘される。

 11ー12月、大小麦を播種し、「氾濫のはじまる4月前に刈り入れる」。「シンド地方(インダス河の下流地域、北方にモヘンジョダロ)の畑作土壌は、インダス川の運んでくる沈泥が微砂をふくみ、“カチョ”(kacho)という軽い壌土(ローム)層を形成し、その土地生産性はかなり高いものであった」(中島健一『河川文明の生態史観』153ー4頁)。

 インダス文明圏とメソポタミア文明圏との間に、「相関と非相関(独自性)」が見られるが、両者は麦文明圏に属していることは明らかだということである。


                                 3 権力と灌漑ーインダス都市の特殊性
 
                                                @ 権 力

 都市構造 一般に「都市はだんだんと大きくな」り「無秩序に広がる」が、前2500年頃に出現したインダス都市は、「大通り、中通り、路地などの道路が合理的に走り、公的建築物が建ち並ぶ地域(城塞部)と住宅が並ぶ市街地にきちんと区分けされ」「設計図をもとにして、もともと空地であった場所に都市を建設した」(近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、55頁)ものである。それは、「同時代のシュメール諸都市よりもはるかにモダンであ」り、「水道や浴室の設備などは、衛生と快適さの点で高度な水準に達し」、「ここでは人々は文化的洗練よりも技術的完成の方を高く評価」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』142頁)していた。

 つまり、都市は、「城塞(「都市の政治的・宗教的中心の区域であり、基壇を設け市街地よりも数メートル高くつくられており、その上に公共建造物が建てられた」)と市街地(「商・工業、住居などが展開する区域)とに区分」され、「碁盤目状の大小の道路、排水溝」はいずれにもみられ、こうした「都市の基本的コンセプト」は共通である(近藤英夫編『四大文明 インダス』110頁)。

 都市規模は「モヘンジョ・ダロ、ハラッパーが最大で、その規模は周囲1キロを超え」、カーリーバンガン、バナーワリー、ドーラビーラーがこれに次ぎ、スールコータダー、チャヌフ・ダロは「ずっと小規模」(近藤英夫編『四大文明 インダス』110頁)である。面積でみると、モヘンジョダロ、ハラッパは80ha、カーリーバンガン、バナーワリー、ドーラーヴィラーは20haで、それ以外はそれ以下である(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、35頁])。各都市の造成順序は、まずモヘンジョダロ(これのみが、「計画都市以前にもインダス文明の建物があった証拠がある」)が最初にできて、それが見本となって各地に波及したらしい(辛島昇ら編『インダス文明』NHKブックス、昭和56年、84頁)。

 城塞と市街地の配置は一様ではなく、インダス河の上流域の分離型(モヘンジョダロ、ハラッパ、カーリーバンガン)と中・下流域の一体型(バナーワリー、ドーラーヴィラー、ロータル)がある(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、35頁])。

 さらに、大建造物も各都市で多様である。モヘンジョダロには、大沐浴場(12×7m、小部屋が付設、「豊穣と再生」の儀礼がなだれたと推定)、穀物倉(46×23m、上部は木造。穀物は発見されず、用途不明)もある(110−1頁)。大沐浴場が他にはないことから、ここが首都乃至はセンターと推定され、「ここで執り行なわれる儀礼が、文明全体に及ぶ儀礼であった」(近藤英夫編『四大文明 インダス』112頁)と推定されている。

 ハラッパにも穀物倉があるが、モヘンジョダロとは構造が異なり、「一棟15×6mのレンガづくりの建物基礎部が、計12棟なら」んでいる。ロータルには「船の引き込み用施設」か「貯水施設」と思われるドックがある。ドーラビーラーでは、主郭と外郭とが区分され、外郭にはビーズ工房などの「官営工房区画」があり、東側に「大規模な貯水施設」があった(近藤英夫編『四大文明 インダス』110−1頁)。

 都市構成員 モヘンジョ・ダロでは、「行政的階層としては神官と書記、印章彫刻者、音楽家、舞踏家があり、生活者層としては陶工と織工、レンガ製造者、石工、大工、冶金師、商人」(近藤英夫編『四大文明 インダス』164頁)がいた。

 このうち神官が「文明社会の支配者層を形成」し、「角と植物の被り物をした神官が執り行う儀礼が、豊穣や再生を約束」(吉村作治ら編『キーワードで探る四大文明』日本放送出版協会、2001年、132頁)した。モヘンジョ・ダロの城塞にのみある大沐浴場で、「神官が行う儀礼が、文明全体におよぶ儀礼」であり、「この儀礼を執り行った者こそが、インダス文明の支配者」(吉村ら編前掲書、132頁)とされている。だが、それは権威による支配であり、権力・軍事力を伴う支配ではなかった。

 商人は、 都市は基本的には商業都市であるから、重要な都市の担い手である。モヘンジョダロには、「チェス盤やサイコロ」もあって、「遠来の商人」らがゲームを通して親しくなり、商売に「必要な情報」を交換した(吉村ら編前掲書、137頁)。ハラッパで出土した度量衡の「錐(おもり)の重さ」は「整然とした比例」を示しており、これは「ハラッパの住民たちが、商業民族であった証拠」(貝塚茂樹編『古代文明の発見』290頁)である。

 手工業者は、「土器や金属器」、紅玉髄ビーズなどの奢侈品を製造した。ドーラビーラーの城塞(主郭・外郭)の外郭に紅玉髄ビーズ工房がある。これはメソポタミアのウル王墓からも出土され、外国にも「珍重」(吉村ら編前掲書、133頁)された。

 こうした都市の商工業者を支えていたのは、周辺の農民の貢納食物であった。都市は、「都市外部からさまざまな物資を運び入れねば機能しない」から、「物流センター」機能を持っていた(吉村ら編前掲書、134頁)。モヘンジョダロ、ハラッパには大きな建物があり、これは、周辺に「かなりの規模の農業」があって、「社会的な余剰生産物を貯えるのに使用」(貝塚茂樹編『古代文明の発見』291頁)された。

 都市権力 インダス文明では、都市は少数であり、大部分は集落であったということが留意される。それは、インダス文明は、メソポタミア文明に比べて、「比較にならない広さ」を持ち、都市は少なく、大部分は村落だということである。これは、「不安定な氾濫農耕」(「ひんぱんに流路を変更し、また氾濫の規模が一定しなかった」ような不安定性)のもとで都市が機能するには多数の村落が必要だったということであり、「インダス文明の遺跡分布が広いのは、なにも文明の度合いが高かったからではなく、この文明の成立基盤としての氾濫農耕から必然的に現れた現象」(辛島昇ら編『インダス文明』93頁)なのである。「メソポタミアでもギリシァでも、また中国でも、都市は互いに抗争し、外敵に対処しなければならなかった」が、インダス文明では「氾濫農耕にもとづく多数の村落の上に成り立っていた都市は、その勢力圏の競合がなく、あるいは、競合を起こすほどの発展を示さ」(辛島昇ら編『インダス文明96頁)ず、「再生や増殖を祈願」する宗教勢力が支配していたのである(辛島昇ら編『インダス文明105頁)。

 このように、インダス文明ではこの広大な領域を政治的に支配する集権的な権力は存在しなかったのである。つまり、インダス文明とは、「ほかの古代文明のように中央集権的な権力で支えられた共同体ではなく、インダス川流域地域やグジャラート州カッチ県周辺地域などの地域共同体が交易などを通じて作り上げた、ゆるやかなネットワーク共同体であ」り、大河依存地域もあれば、大河に依存しない地域もあった(長田俊樹「インダス文明ははたして大河文明か」同上書71頁)。都市住民や農民たちは、「自治的に独立し、たがいに連合した巨大な複合体制のもとに、豊かで平和な都市生活を享受することができた」(中島健一『河川文明の生態史観』147頁)。そして、農民たちは、「灌漑用水の使用料として、都市の管理機関に穀物を貢納していた」(中島健一『河川文明の生態史観』147頁)が、都市の権力者は不在であったのである。

 そのことは、インダス文明では、「王を象徴する墓や建造物はなく、王制をしめす明らかな遺跡も発見されていない」(中島健一『河川文明の生態史観』149頁)ことによって裏付けられる。諸都市は、「河川ぞいに、北東から南西へ、およそ1500−1600kmの広さにわたって点在した」が、「たがいに政治的に独立をたもちながら、河川交通によって密接な交渉をたもちつづけ」(中島健一『河川文明の生態史観』149ー150頁)ていたのである。

 シュメールとインダスの都市間交易   インダス諸都市は、「シュメール諸都市にとって注目すべき取引の相手」であり、「豊かなインドの後背地からはメソポタミアが欲しくて仕方がなかった金属、高価な石類、象牙、貴重な薬草などが選ばれた」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』142頁)のであった。前2450年ないし前2400年、ハラッパとシュメールとの交流はさかんであり、ハラッパの輸出品は農産物、木綿、貴金属であり、輸入品は奴隷、銅、錫、鉛である。輸入奴隷は「大規模な農業経営」に使用されたという(貝塚茂樹編『古代文明の発見』292頁)。ただし、「インダス川を中心とした北西部」以外は、外部世界との接触はなかった(クック前掲書、197頁)。

 こうしたメソポタミア貿易「第一の拠点」は、「カンベイ湾に注ぐサバルマティ河畔のロタール」に造られた「高さ4m、奥行35m、幅215mに達した煉瓦製の港湾施設」であり、「これだけの規模の港湾設備が存在したということは、インド洋、ペルシァ湾そして紅海を結ぶ海上路に、極めて広範な海外貿易がとりおこなわれていたことを示す」証拠であろう(H.ウーリッヒ『シュメール文明』142頁)。

 こうしたインダス貿易のシュメール側の相手国はウルであった。動物が描かれた印章は、「シュメールの諸都市とりわけウルに見られ」、このウルが「インド貿易から利益をあげていた」のである。その印章は、「数百年にわたる緊密な交易関係」を示す「シュメール諸都市のインダス商館長の個人的な印章」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』142頁)と推定されている。

 つまり、ウル第三王朝期、「印章、碑文、彫像などを通じて」、「ハラッパやモヘンジョ・ダロの商人がウルに駐在したり、そこに商館を建てたりしていた」ことがわかる。一方、「シュメールの外交官や商人達が、インダス帝国の首都に駐在していた可能性も考えられる」(H.ウーリッヒ『シュメール文明』220頁)。

                                             A 灌 漑

 インダス川流域の沖積平野は平坦で、氾濫すると、「溢流は20kmちかく広が」り、ゆえにメソポタミアの日干し煉瓦は「まったく役に立たなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』150頁)。カーィプル(モヘンジョダロから50km東)では、「古代の溢流灌漑では、夏季におけるインダスの氾濫によって、1年間に1回だけ、なんらの人工を加えることなしに、耕地にヘクタールあたり25cm(2500m3/ha)ほど灌水することができた」(中島健一『河川文明の生態史観』151頁)のである。

 るまり、「氾濫の季節には、河水面より低い耕地はたやすく水浸しにな」り、これで「耕地への灌水」は十分となり、「多大の労働力を政治的に動員し、労苦して溜池や周年式または水路式の灌排水運河のネット・ワークをわざわざ築造する必要もなかった」(中島健一『河川文明の生態史観』154頁)のである。だから、中島氏は、「古インダス諸都市の灌漑農法のパターンには、古代メソポタミアの沖積平野にひろく建設されていたような大規模な周年(水路)式灌漑のパターンには、必要悪としての、あの“アジア的”な、河川灌漑の“総請負人”としての専制君主やその管理・支配体制としての苛酷な専制主義の存在理由もさしあたり重要なものではなかったにちがいない」(中島健一『河川文明の生態史観』154頁)と推定する。

 さらに、「自然の排水システム」が、「この地方における畑地土壌の脱塩」を促進し、「農作物の塩害を防ぎ、異常に高い農業生産力」の保持を可能にした。これが、「モヘンジョ・ダロ(シンド州)の南部地方のインダス川西岸にそって、多数の都市が繁栄した歴史的背景」であり、諸都市はこの「季節的な氾濫の溢流を単純に利用」するだけで、「高度の文明を築きあげてきた」のである(中島健一『河川文明の生態史観』151頁)。

                                       4 人 口 

 紀元前2550年から2030年頃インダス文明最大かつ最強の都市ハラッパーは約8万人の人口を抱え(「インダス文明で新発見」[『ナショナルジオグラフィック・ニュース』2013年4月30日])、モヘンジョダロには100haに4万人が居住していた。インダス文明は東西1600km、南北1400kmで「どの文明よりも広大」で「大小1500を超える遺跡」があるから(近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、45頁)、相当の人口規模であったと推定される。この広さは、「古インダス都市文明を代表する首都」ハラッパとモヘンジョダロは、「古メソポタミア文明のほぼ4倍」「古エジプト文明のほぼ2倍」といわれる広大な「組織領域」にあたる(中島健一『河川文明の生態史観』145頁)。

 そのうち、モヘンジョダロのあるインダス川流域には三十数ヶ所の遺跡が発見され、ハラッパー文明の中心のサラスヴァティー川流域からは5百以上の遺跡が発見されている。 このハラッパ文明遺跡のうち「都市や集落」は80をこすともいい(H.ウーリッヒ『シュメール文明』142頁)、モヘンジョダロとハラッパで少なくとも100ヶ所以上の都市・集落があったと推定される。サバルマティ流域の都市・集落などを含めると、インダス文明の都市・集落はそれ以上になる。

 以上を踏まえて、インダス文明の総人口を推定すると、約100−200都市・集落の人口全体を単純推計しても、500ー1000万人前後と推定されるから、最大1000万人もありうるかもしれない。中島氏は、「南のサバルマティ流域(カンベイ湾に注ぎ込む川)の諸都市をふくめて1000万ちかい人口」を扶養したと推定している(中島健一『河川文明の生態史観』201頁)。該当範囲が大きいし、未発掘遺跡もあるようであり、かなり大雑把な推定であるが、インダス文明の人口は、メソポタミア、エジプト文明の半分か同じぐらいで、人口規模、それに呼応する農業生産規模では中文明以上と推定される。
 

                                    5 インダス文明衰退理由 

 インダス文明は、前2400年 「都市としてさかえた」(貝塚茂樹編『古代文明の発見』292頁)が、前1800年頃に衰退した(『古代オリエントの世界』69頁)。このインダス文明の衰退は、モヘンジョダロの粗末な家・混乱、ハラッパ遺跡の市門の機能停止、ロータルのドック放棄などで傍証されている(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、39頁])。この頃、塩害で、「外国との交通もとだえがちにな」り、「文化は停滞し、不毛、単調」になり(貝塚茂樹編『古代文明の発見』293頁)、都市「機能を停止」(吉村ら編前掲書、137頁)したのである。そして、前1500年頃 「おそらく、北から侵入してきた異民族にほろぼされた」(貝塚茂樹編『古代文明の発見』292頁)のであった。

 塩害 インダス諸都市では、塩害は、排水不良と乾燥化でおきる。

 シンド地方では、「氾濫原の勾配がゆるやかなために、地下水位がたかく、畑作土壌の保湿性は大気の乾燥する」ので「大規模な運河システムの建設をすすめている」が、「たかい地下水位による排水不良」が塩害を導いた(中島健一『河川文明の生態史観』153頁)。シンド地方のみならず、「インダス川の氾濫原は、その平野や河川の地型から、地下水位がたかく、排水不良の地域が多」く、「泥砂の堆積による河道の変化や流路の閉塞もあった」(中島健一『河川文明の生態史観』156頁)のである。 「それらの地域では、単純な溢流灌漑のままで適切な排水による作土の脱塩作業を怠ると、畑作土壌は数年のうちに二次的塩化こうむ」り、「とくに、亜熱帯の乾燥地方においては、地下水位がたかいと、土壌水の蒸発がさかんなために、土壌中の塩化物を表土に集積して、土壌の二次的塩化をいっそう促進」(中島健一『河川文明の生態史観』156頁)した。

 しかも、「インダス川の流泥(シルト)には作土に塩害をもたらすカルシウム塩化物が多」く、「乾燥化と気温の上昇も作土の塩化をすすめて、農業生産力を壊滅的なものにした」(中島健一『河川文明の生態史観』157頁)のである。インダス川の流量減少、泥土体積で、この自然排水システムは不良化し、作土を塩化させ、農業生産力を衰退し、忽然と消え去った(中島健一『河川文明の生態史観201頁)。

 さらに、近年の花粉分析の結果、「少なくともラージャスターン地方においては、前1800年以前は今日より湿潤」だったが、「過度の放牧や樹木の乱伐」などで乾燥化が進展し、蒸散過程で「地中のカルシウム塩化物をも毛細管現象によって地表に吸い上げ、やがては地表を、雪でも降ったように、まっ白な固い塩分の殻で覆ってしま」い塩害をもたらすとされている(辛島昇ら編『インダス文明』145−6頁)。モンスーンの8−9月にかけては「冠水して、膝上50センチほどの水が一面に広がる」が、「乾季には水が乾いて陸地となり、表面が塩の結晶で覆われ」「人を寄せつけない過酷な環境になる」(近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、43頁)のであり、そうして乾燥化の被害が現れてきたのである。既に、このことは、中島氏も、「多量の焼成煉瓦の製造のための樹木の乱伐」や「過放牧」で、「林野の植生が荒廃」し、「そのことが乾燥化をはやめ、異常氾濫や土壌浸食をいっそうはげしくし」たと指摘していた(中島健一『河川文明の生態史観』138頁)。

 この結果、メソポタミア文明におけるように、分散する都市国家から巨大集権国家が登場して本格的に塩害対策にのりだすこともできずに、インダス文明は衰退したと見るべきであろう。ただし、インダス文明の分裂国家でも、メソポタミアの集権国家でも、最終的に塩害に対処できない点では同じなのではあるが。

 洪水 モヘンジョ・ダロでは「都市が存続している間に少なくとも三回の大洪水があった」(近藤英夫編『四大文明 インダス』119頁)。

 その結果、後期のモヘンジョダロでは、「大穀物倉の煉瓦の腰壁」が「小さな乱雑な建物を含む堆積に埋もれ」、後期の都市では「先人の廃墟の上」や「洪水面の上」に「家屋が建てられるいうにな」ったり、「家屋の内部は、多くの下層階級の人が住むために、新しい隔壁によって細かく仕切られ、うじゃうじゃと兎穴のようにな」り、「街路は蚕食され、小路は・・みすぼらしい建物によって、・・塞がれて」しまった。(モーティマー・ウィーラー、曾野寿彦訳『インダス文明』みすず書房、昭和41年、197頁)

 地殻変動 中島氏は、紀元前2000年頃、「気候の乾燥化と気温の上昇とによって、河川流水量の減少、泥土の堆積、農耕地の二次的塩化」に脅かされだしたと指摘するが(中島健一『河川文明の生態史観』133頁)、この頃に地殻変動があったようだ。つまり、前2000年頃、「インダス河口部近くでの土地の隆起とそれによって引き起こされる大洪水や河川の流路変更などが、・・おこ」り、地殻変動でガッガル・ハークラー川が干上がり、「都市は疲弊していった」のである。「河川の流路変更と洪水」が「都市と町邑・村落の内的関係」や「遠隔にある都市という外的関係」のバランスを崩したのである。ガッガル・ハークラー川が干上がって、カーリバンガンは放棄されたとも言われる(近藤英夫編『四大文明 インダス』119−120頁)。

 しかし、「ガッガル=ハクラ涸河床は、少なくともインダス文明の最盛期にあっては、とうとうたる大河であ」り、これが涸れ上がったのは前500年頃とされているから(辛島昇ら編『インダス文明』149−150頁)、これはインダス文明衰退には関係ないという意見もある。

 複合的要因 こうして、インダス文明は、「地域によって違いはあろうが」、「地殻の変動などによる洪水や川の流路の変更、また自然の乱開発のような人為的な環境の破壊などといったさまざまな原因が、複雑に重なりあい、競合しあって、存立基盤のやや脆弱であったこの文明の力を、衰退させてしまったのではないだろうか」(辛島昇ら編『インダス文明』151頁)とみるのが妥当であるようだ。

 アーリア人侵入 従って、アーリア人の侵入は、こうして既に衰退していたインダス文明に最後のとどめをさす作用をしたに過ぎなかった。

 基本的に、「インド・アーリア語族は一度に大挙して南アジアに入ってきたのではなく、波のように繰り返し移住してきた」(上杉彰紀「インダス文明以降の南アジア」[近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、205頁])。

 前2000年頃、「人口の増加」などで「より肥沃な土地」をもとめて、東北ヨーロッパなど(スカンジナヴィア、ドイツ、東欧、南ロシア、コーカサス山脈北麓、カスピ海沿岸、パミール高原、西トルキスタン)から諸民族が中央アジアに移動をはじめ、アーリヤ族を形成し、前1500年頃インドに入ってきた(辛島昇ら編『インダス文明』171−2頁)。「戦車や武器を製造する技術」では「アーリヤ民族は先住民より優れていた」が、「物質文化は先住農耕民よりおくれていた」(辛島昇ら編『インダス文明』181頁)

 紀元前1500年頃、「モヘンジョ・ダロの都市文明は、アーリヤンが中央アジアから南下してくる以前に」、塩害・洪水・地殻変動で衰退し、「西方の山地住民たちの攻撃」によって崩壊し、続くアーリヤン進出は「古インダス都市文明を完全に滅亡させた」(中島健一『河川文明の生態史観』158頁)のであった。アーリア人の社会はハラッパーの都市文明とはほとんど共通点がな」(マイケル・クック、千葉喜久枝訳『世界文明 一万年の歴史』柏書房、2005年、206頁)かった。

 アーリア人のガンジス川移動 ヴェーダが描き出しているアーリア人は、非常にプライドが高く、インド各地に住む非アーリア系の民族を見下していた。 パンジャーブ地方に定住して農業を修得したアーリア人は、ガンジス川流域のヒンドゥスターン平原の中央部、デカン高原にも入り始め、土着のパニ族やダーサ族まどを征圧して、王国をつくっていった。

 こうして、「舞台はインダス本流域から、より北東の地と南東の地に移され」、「北はパンジャーブからさらにガンジス平原へと移行し、南はグジャラートからラージャスターン、もしくはデカン高原の北西辺へと、人びとの活動の場は移っていった」(辛島昇ら編『インダス文明』167頁)のである。



                                     第二項 「ガンジス文明」と米

 ガンジス川は、「インダス川と同じくチベット高原に源をもち、亜大陸北西部から北インドの平原を東流」し、「上流でヤムナー川と並行して流れる両河地帯(ドアーブ)と、両者が合体した中・下流域に大別される」(辛島昇「新しい歴史解釈と南アジア」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、6頁])のである。

                                       1 長江稲作との関係

 長江デルタでのイネ栽培 「東アジアと東南アジアを研究する考古学者の多く」は、「稲作のはじまりは中国中南部の長江流域付近で、そこから南のインドシナ、マレーシア、北東の韓国、日本に伝播したという説」を主張している(ドリアン・Q・フラー(Dorian Q.Fuller)「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年]197頁)。

 一方、「インドをフィールドとする考古学者は、起源はガンジス川流域で、長江流域の民族とは異なる民族が稲作をはじめた証拠がある」と主張した。「考古学的証拠の核である炭化した穀物は、それじたいが分析しにくいという特性」があり、「考古学的遺物に確たる基準」はまだないが、「植物考古学では分析方法を改善し、栽培化されたイネの進化に関する新たな見解を示し」、「モミ殻と小穂軸の接合部位の顕著な変化をたどるという方法」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』197頁])を案出したのである。

 インディカ米はジャポニカ混合で形成 インディカ米は、ガンジス稲作で、地元の米と、中国から導入された栽培稲ジャポニカとの混合で形成されたようだ。約紀元前6500年までには、「すでにガンジス川中流域のラフラデワでコメが食べられてい」て、前2500年前には「作物として栽培されていた」事が証明されている(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』205頁])。この点、樋口隆康氏も、紀元前2000年に、インドではロータル、ラングプール、ハスティナプラの稲作があったと指摘している(樋口隆康「アジアにおける稲作の起源と長江文明」[諏訪春雄・川村湊篇『アジア稲作文化と日本』雄山閣、平成8年]15頁)。従って「稲作として年代的に一番古い」のは「揚子江の中流・下流」(樋口隆康「アジアにおける稲作の起源と長江文明」前掲書16頁)であり、ガンジス流域稲作はその次に古いものだったようだ。

 つまり、最近の遺伝子の分析から、「インディカの形成には、東アジアから導入したイネの品種(ジャポニカの品種)と南アジアの野生種の交配が必要なことが明らかにな」り(二代雑種)、「インドかパキスタンで稲作をしていた人が、すでにイネを栽培化した他地域(おそらくは中国)から物々交換という手段を使ってイネを手に入れ、栽培後にそのイネがすぐれていると気づき、既存の劣った品種と交配したというシナリオ」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」前掲書205頁)である。以後、ジャポニカとインディカの遺伝情報の交雑は数千年におよび、多くの変異が蓄積されたであろう。

 最近の学説では、紀元前2000年に、「いくつかの中国原産の作物(キビ、アサ、モモ)と、中国にすでにあったものと類似する収穫用の道具が、インドに始めて現われ」、これを根拠に「パキスタンとインド北西部でジャポニカイネが導入され、地元で未発達のまま栽培されていたイネとの交配が行なわれたとされ」ている。この頃から、「イネの栽培の規模は大きくなり、インド北部へとひろく伝播していった」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」前掲書205頁)ようだ。

 「インドで得られた証拠から、ガンジス川流域で初期に採集されていたイネの大半は、一年生の野生種だったことがわかってい」て、「その量は、たとえば競合する植物を焼きはらうなどして管理されてい」て、「栽培種としての多くの特徴をもつにはいたらなかったため、東アジアまたは中国から栽培イネが導入された」(ドリアン・Q・フラー「植物考古学からみた栽培イネの起源」前掲書205−6頁)といわれる。

 いずれにしても、アジアでは、ガンジス川流域と長江流域で米栽培が行われ、両者の交雑のもとに稲作が展開していったということが重要である。そして、「長江で生まれたイネは、おそらくジャポニカのイネが多い」が、「東南アジアのイネ、とくに平地のイネは、おもにインディカ」ということになったのである「(佐藤洋一郎・赤坂憲雄「野生イネとの邂逅」[佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』玉川大学出版部、2013年、39頁])。

                                           2 ガンジス稲作の展開

                                      @ ガンジス川流域の「豊穣」 

 ガンジス川流域は、「サンタール=パルガナ山地の突出によって、さらにガンジス主平原とベンガル地方はそこだけの歴史を展開し」、「ガンジス主平原はインドの中央に位する豊沃な広い沖積平野地帯で、外来の勢力に悩まされることが比較的少なかったから、インド史上の大国家は多くここを中心に栄え、したがって伝統ある大都市が数多く所在している」(和田久徳「インド史の背景」[山本達郎編『インド史』山川出版社、昭和63年、4頁])のである。

 そして、ガンジス川流域では東経82度前後を境に、「東は稲作卓越地域、西は小麦・大麦・雑穀の卓越地帯」であり、「ガンジス川中流域では、平年、6月ー10月初旬が雨季にあた」り、「雨季直前は降雨量が乏しい」のであった。そして、「ガンジス川中流域ビハール州の北部平原は土壌が膨軟で肥沃」であり、「雨季にはほぼ全域が冠水する上に、しばしば河川の流路が変わってしま」い、雨季以前でも、「ヒマラヤの大量の降水と雪解け水が流れ込」み、「多くの低湿地が存在」(前掲三田昌彦「前6−後3世紀ガンジス川中流域の稲作法」)していた。絶好の稲作地帯だったといえよう。

 初期仏典による「稲の栽培法」は犂農耕で二種類の農法が存在し、ビハールでは、@ガンジス川以北平原および大河川沿い(7カ月以上の自然湛水地域)では冬稲の湛水散播法(除草が可能)がなされ、Aガンジス川以南平原(起伏に富む7ヶ月未満の自然湛水地域)では、灌漑田(雨季稲・冬稲の乾田散播法)、天水田(雨季稲の乾田散播法)がなされていた。マガダ地方では、「水管理の行き届いた田が多く存在し、雨季稲・冬稲の両方が栽培されており、極めて豊穣であった」のである。このように、「ガンジス川以南の灌漑田では排水ー除草を行う集約的な乾田散播法が行われ、ガンジス川以北では洪水による地味の豊かさに任せて粗放な堪え水散播法が行われていた」(前掲三田昌彦「前6−後3世紀ガンジス川中流域の稲作法」)のである。

 以上、「古代から『中世初期』にかけては犂農耕の体系として農業技術上、土地生産性の上昇の傾向が認められる」のである。ただし、「しばしば指摘される、古代の豊かな農業生産を伝えるギリシア人の叙述(ディオドロスはインダス川流域の農業を叙述し、冬と夏に二度の雨季があるとする)は、インドが当時の地中海世界に比較して高度な農業技術を有していたことを物語るものではなく、二度の作期と豊饒性というインドの恵まれた自然条件を指摘する以上のものではない」(前掲三田昌彦「前6−後3世紀ガンジス川中流域の稲作法」)のであった。しかし、ストラボン(前63年頃−23年頃、ローマに滞在したギリシア地理学者)によると、稲の栽培については、「稲は水を堰き止めたその水中に立っているが、それを支えているのは床土であ」り、「高さが4ペキュス(1.8メートル)で穂数が多く収穫も多い」(173頁[ストラボン『ギリシア・ロ?マ世界地誌』U、388頁])ともしていて、やはりギリシア人らも稲の生産性の高さは認めていたようだ。

 従って、ガンジス河流域の自然は、稲作に適し、高生産性をもたらしていたということだ。ただし、「インドは中国と違って熱帯であって、その中心であるガンジス河流域は湿潤地帯であるところから、バクテリアやヴィールスが繁殖しやすいところであり、同一社会に組み入れ共住するとき、伝染病を回避するために交流の管理(浄不浄による隔離)を行おうとした」(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、160頁)のであった。

                                     A 稲作の開始 

 前2000年頃までには、「ガンジス川中流域を中心として、細石器と赤色・黒色土器を特徴とする新石器文化が成立していたが、それは狭域にとどまるものであり、小規模な集落で自給自足的な生活を営んでい」て、「すでに稲の栽培が開始されていた可能性が高」(上杉彰紀「インダス文明以降の南アジア」[近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、206頁])く、ガンジス川中流域のチランド遺跡では、「インド亜大陸における稲栽培の最古の証拠」が発掘されている(「インダス文明からガンジス文明へ」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、22頁])。

 前1500年、ガンジス川上流域ではバーラー文化、ガンジス川の中上流域では赭色土器・銅器文化、ガンジス川の中流域・中下流では新石器文化が展開した(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、43頁])。こうして、前1500年には、「積極的に森を切り開き、開墾を行ない」(渡辺照宏『新釈尊伝』ちくま学芸文庫、2005年、55頁)、「ガンジス川中流域を中心として比較的広い範囲に集落が分布するようになり、人口が増加し」、「広範な範囲に人々が移住を繰り返して拡散していった」(上杉彰紀「インダス文明以降の南アジア」[近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、206頁])。北インドで「早くに都市化・国家形成をもたらした要因」は、「前1500年頃以降、インド・アーリア語族も含めて、人々の移住が活発化してそれまで未開発であった地域を開墾、居住地化し」、「小麦と稲を主体とした二期作」で食料生産が増加したことによっている(上杉彰紀「インダス文明以降の南アジア」[近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、210−1頁])。

 前1100−1000年頃、パンジャーブ地方を中心に住みついたアーリヤ民族」の一部は、「ガンジス川の上・中流域へと移動をはじめ、この地で農耕社会を完成させた」(辛島昇ら編『インダス文明』184頁)。そして、アーリヤ人は、ガンジス川流域で「農耕社会を完成させ」、ヒマラヤ山麓の森林を伐り開き、まだ「大麦も小麦も栽培されたが、東方に進出するにつれ、稲の栽培が一般的となった」(山崎元一「インダス文明からガンジス文明へ」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、36頁])のである。

 T期(前1300年頃ー前1000年)には、ガンジス川上流域では彩文灰色土器、中上流域・中流域・中下流では黒縁赤色土器などが展開し、U期(前1000−前600年頃)・V期(前600年頃ー前400年頃、十六大国時代)にはガンジス川上流域・中上流域では彩文灰色土器後期段階を迎え、ガンジス川の中流域・中下流では黒縁赤色土器(U期)・北方黒色磨研土器前期段階(「薄手の土器」)が展開した。

 このU期は、「後期ヴェーダ時代とよばれ」(辛島昇ら編『インダス文明』184頁)、「王権が伸張し、ガンジス川の上・中流域に部族王制をとる国家が分立割拠した時代」となり、栽培穀物の米を中心にして、「インダス文明の諸都市の消滅後1000年ほどの空白期間を経て、インド亜大陸に再び都市の出現」をみた(辛島昇ら編『インダス文明』186頁)。つまり、この時期に、アーリヤ人は西北インドに「溢れ」、さらに「東方、東南方に進出」し、紀元前6世紀には、肥沃な「ガンジス川とジャムナー川との両河流域」(ドアーブ)が中心地となり、「中国地方(マドヤ=デーシャ)」と呼ばれた(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』山川出版社、昭和63年、17頁])。そして、この紀元前6世紀、「禁欲苦行主義の台頭によってそれまでの家中心の正統的な社会が揺らぎ、社会の再編が求められ」「四ヴァルナ体制の確立」で対処しようとし、「行為規範」策定がはかられた(渡瀬信之訳『マヌ法典』東洋文庫842、平凡社、2013年、499頁)。

 この時代も、「まだ政治的大統一はできなかったが、諸部族の統合が進んで強力となり、各部族は小都市を建設し、これを中心として多くの小国家を作」った。まず「部族長の権力が増大してラージャすなわち王の名にふさわしい実質をもつに至」り、アーリア人は、「同族または先住の異民族との死闘」を繰り返し、「勝ち残った部族」が「戦いのリーダーとしての部族長の発言権」を強めた。後に、「部族長から強力な国王」は、「諸王の王、世界征服者としての資格」に関わる「アシュヴァメーダ」(馬祭)儀式をもつようになった。「王の倉庫係」「税金の徴収係」など「行政機構も複雑」になったのである(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』山川出版社、昭和63年、17−8頁])。


                                     B 都市国家の登場 

 W期(前400年頃ー西暦紀元、マウリヤ朝)では、ガンジス川の上流・中上流・中流域・中下流で北方黒色磨研土器後期段階に統一し、「土器の地域性が消失」し、「ナンダ朝マガダ国による北インドの統一からマウリヤ朝の成立にかけての時期に相当」(近藤英夫「インダス文明」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、43−4頁])している。 紀元前1000年紀の半ばには、多数の「国家が勃興」し、「無数の国家が互いに争」(クック前掲書、207頁)いだした。やがて、インド北東部ではマガダ国が地域を支配した。「当時の国家の中で部族制国家は数が少なく、君主国家が支配的」(クック前掲書、208頁)であった。

 こうして、紀元前1000年紀(紀元前1000年から紀元前1年まで)、鉄器の登場で、鉄農具での開墾と、大規模稲作が可能となり、アーリア人の中心は「ガンジス川流域の大平原に移動」(クック前掲書、207頁)した。インド文明の中心は、インダス文明からガンジス文明に移ったが、インダス文明の特徴は受け継がれたいた。ガンジス川は、「もともと密林になるように定められていた北東部の降雨量の多い地域に流れている」が、インダス川は、「中東を流れる大河同様」に「降雨量の少ない北西部の流域に生命をもたらし」(クック前掲書、196頁)ていた。やがて、ガンジス川は、連作弊害に対処する水田稲作に向いていることが分かって、稲作地域として開拓されたようだ。インドは、インダスの麦ではなく、ガンジスの米が「富と国家」システムを生み出したのである。

 十六大国 前6−前4世紀、「仏典を中心とした文献史料によると、釈迦が活躍し」、「北西インドから北インド、中央インド各地に都市が存在し、北西インドから北インド、中央インドにかけて16の国家が存在」(杉彰紀「インダス文明以降の南アジア」[近藤英夫編『四大文明 インダス』NHK出版、2000年、209頁])した。この点をもっと地理的に言うと、西北二国、中央インド(ガンジス上流域)三国、南インド四国、東インド七国(ガンジス中流域)と、東インドへの拡張が確認される(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』20−1頁)。

 この十六大国は王国(コーサラ国、マガダ国。専制君主が統治)と部族共和制国(「支配部族の有力者による集団的統治」国)とからなっていた(山崎元一「インダス文明からガンジス文明へ」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、47頁])。前者の王国の場合でも、「国王は無制限といっていいほどの権力」を付与されても、「慣習、宗教上の戒め、さらに大臣たちや僧侶たちの影響力は王権の勝手気儘な濫用に対して大きな歯止めとして役立った」から、「政治の実際の施行に際しては、国王が暴君たることはまずなかったし、またしばしば国王は、義務と正義という最高の理想に基づき動かされて政治を行った」(P.N.チョプラ、三浦愛明訳『インド史』法蔵館、1994年、22頁)とも言われている。

 こうした強力な諸国家は、「技術革新とあいまって生産性が飛躍的に高まった稲作農業を基盤にした」(宮元啓一「宗教・思想史の展開」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、241頁])のである。特に、ガンジス川中・下流域の南岸(東インドのビハール南部)に興ったマガダ国では、「肥沃な平原における集約的水稲栽培は大きな余剰をもたらし」、「南部の丘陵地帯の鉄資源」が鉄製武器、農具の大量生産をもたらした(山崎元一「インダス文明からガンジス文明へ」[辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、50頁])。つまり、この時代には、「都市の経済活動に劣らず、農村地帯における生産活動の進展も見られ」、「鉄製農具の普及とともに肥沃なガンジス川流域の開拓が進み、二期作、ときには三期作を可能とする気候条件のもとで、水稲栽培による農業生産の増大がもたらされ」(渡瀬信之「ヴェーダ時代の宗教・政治・社会」[山崎元一・小西正捷編『南アジア史』1、山川出版社、2007年、102頁])、「南インドの穀倉」(中村元『インド古代史』上、284頁)といわれたのであった。

 この米作経済力を基盤として、マガダ国シャイシュナーガ王朝第五代ビンビサーラ王(前543−前491年頃)の時に、「ガンジス中流域と下流域との間の要地を占めたから、ガンジス川を通ずる通商路を扼し(掌握し)」たり、「また古代インドの戦闘の主力であった優秀な戦象」が多かったことから、強大となった。そして、ビンビサーラ王は、「周辺の強国コーサラなどに対しては結婚政策を用いて国境を安定させ」、(バラモン牽制を意図してか)この時に説教を開始したブッダおよびヴァルダマーナの「新宗教を保護」した(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』25頁)。

 ビンビサーラ王の子アジャータシャトル王(前491年ー前495年)は、コーサラを征圧し、「仏教およびジャイナ教の熱心な保護者」となり、「カーストによって固定的閉鎖的となった小社会を超越し打破しようという理念」を国勢拡張に利用した(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』26頁)。マガダ国のナンダ朝(シュードラの女の生んだ子が前王朝を簒奪して樹立されたと言われる)は「インダス川流域を除く北インド全部を統一する大きな国家」となり、その末期には、「歩兵20万、騎兵2万」の兵力を擁した(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』27頁)。

 米作を起動力に「経済の発達はますます盛んとな」り、「銀・銅の貨幣が使われだし、高利貸が発生し、抵当・利息の制度もこの時代に始ま」り、海外のセイロン・ビルマ・バビロン方面との交易に乗り出すものもいた(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』27ー8頁)。

 当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国、釈迦族カビラ国に仏陀が生まれた。この釈迦国は、「東西八十キロ、南北六十キロ、‥千葉県ぐらいの広さ」(ひろ さちや『釈迦とイエス』新潮選書、2000年、50頁)の小国であった。仏教は、「根本的に世間から隠遁し、ただひたすら解脱することを願う苦行者のための哲学」(クック前掲書、208頁)となった。「キリスト教と同じように、僧侶の存在は僧院の設立につながり」、僧侶は「支配者の寵遇を得るのに熟達していた」(クック前掲書、209頁)ので、「僧院は富と権力の中心」(クック前掲書、208頁)となった。この点をもっと正確に言えば、仏教とキリスト教は同根であり、シャカの仏教と布教方法はイエスの宗教と布教方法に影響を与え、いずれも布教過程で権力に「迎合」し「利用」されたのである。しかし、インドで仏教は衰退し、「ガンジス川の平原の都市文明に浸透したアーリア人の遺産が、現在、インド亜大陸全体で優勢な文化的伝統となって」(クック前掲書、210頁)、ヒンヅー教が興隆した。

                                 C 古代専制国家 

 アーリア人がガンジス川中流域に進出して以降、米生産力の増加によって、前6・7世紀には専制国家が形成され、マウリヤ朝(前317年頃ー前180年頃)、グプタ朝(320年ー550年頃)などが出現した。そして、米作の進展、人口の増加で、インドでは実に多様な職業や階層が生じていた。この事を宰相カウティリヤ(マウリヤ朝初代チャンドラグプタ王[前317−293年]の宰相、前350年ー前283年頃)著『実利論(アルタシャーストラ)』(上村勝彦訳、上下、岩波文庫、1997年)から確認してみよう。

 富の学問 第一章「項目と各巻の列挙」では、「土地の獲得と守護を目的として、古の学匠たちに説かれた諸々の実利論の大部分を一書にもとめて、この『実利論』が作られた」(カウテリヤ『実利論』上、20頁)とした。米のみならず多様な富を生む土地を基軸に実利中心の学問が生まれたというのである。つまり、第二章(第一項目ー学問の列挙)では、「学問は哲学とヴェーダ学と経済学(ヴァールツター)と政治学(ダンダニテイ)であり、哲学は、「災禍と繁栄における判断力を確立し、智慧と言葉と行動とに通達せしめる」のであり、「哲学は常に、一切の学問の灯明であり、一切の行動の手段であり、一切の法の依り所であると考えられる」(カウテリヤ、上村勝彦訳『実利論』上、27−8頁)とする。

 しかし、ヴェーダ学こそが諸学の基礎となってゆく。第三章「ヴェーダ学の確立」では、ヴェーダ学の対象は5ヴェーダ(サーマ、リグ、ヤジュル、アタルヴァ、イティハーサ)と、6補助学(音韻学、祭式学、文法学、語源学、韻律学、天文学)であるとされる。「このヴェーダ学で説かれた法は、四姓(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)と四住期(家住期、学生期、林住期、遊行期)との、各々の義務を規定」し、「各自の義務を実行すれば、天界や無限の至福に到達できる」(カウテリヤ、上村勝彦訳『実利論』上、29−31頁)とされた。

 その上で、経済学、政治学が展開される。第四章「経済学の確立」「政治学の確立」では、「農業と牧畜と商業と(を扱うの)が経済学(生産業)であ」り、「穀物、家畜、金銭、林産物、労働を提供するからして有益」とされる。 米作を基軸とする諸産業・商業の展開が「経済学」を生み出していることは注目される。

 そして、「哲学とヴェーダ学と経済学の保全を実現するものは王杖(権力、刑罰)であ」り、「それを行使する方法が政治学である」。つまり、哲学・ヴェーダ学やこの経済学を実げするものが権力であり、その方法が政治学だとすることは、経済学の政治的性格(政治経済学)を把握する上で興味深い。学匠たちは「それ故、世間の営みを追求する(王)は、常に王杖を振り上げていなければならぬ」と述べ、経済学の政治的方便の必要を主張するとした。つまり、権力は「経済学」で「世間の営み」を維持しようとするのである。経世済民の思想がうたわれている。ただし、カウテリヤは、「それは正しくない」と批判し、「苛酷」「軟弱」な王杖使用は「恐怖」「軽蔑」対象となり、「適切に王杖を用いる王が尊敬される」とした。「よく熟慮して用いられた王杖が、臣民に法と実利と享楽とをもたらす」(カウテリヤ、上村勝彦訳『実利論』上、31−2頁)とする。ここまで、7インドでは経済が成熟していたのである。

 また、土地に関わる訴訟も生じ、これも取り上げられている。土地売買について、「親族・隣人・債権者が、順次に土地財産を買う権利を有」し、「次いでその他の外部の者たちが(買うことができる)」とし、「耕地・庭園・灌漑設備・溜池・貯水場」は競売で売買されるとする。「耕地に関する紛争は、近所に住む村の長老たちがこれを決定すべきである。彼等の意見が割れる時には、多数の人・清廉な人・(両方の側から)承認された人の説に従って決定すべきである。あるいは、中間の道を採るべきである。両者の主張とも却下された場合、王がその不動産を受け取るべきである」とされる。「貯水場・水路・水田の利用により、他人の耕地における耕作や種に損害を与えた場合には、損害に応じて賠償金を払うべきである。水田・庭園・灌漑設備が相互に損害を与える場合には、損害の二倍の罰金を科す」と、農業に関わる損害賠償を定める。灌漑設備所有者の水供給義務については、「(灌漑設備の所有者は)運河・川を利用した施設(ダム等)・溜池(から水を引いた)水田・庭園・菜園に種を蒔くことにより生ずる種々の作物の配当に対する代償(として水)を供給すべきである」(カウテリヤ『実利論』上、268−272頁)とする。

 諸階級の生成 第八章大臣の任命からは、当時の国家の諸官職を確認することができる。カウテリヤは、要職者(顧問官、宮廷祭僧、将軍、皇太子、門衛長、王宮守備官、執事長、主税官、守蔵官、司法官、軍司令官、都市の裁判官、工場長官、顧問官会議長官、軍管理官、城砦守備官、国境守備官、林住族長)を監視するために、スパイを送り込めとする(カウテリヤ『実利論』上、52頁)。 

 王宮の城塞都市についても、その構成と運営者が詳細に述べられている。「四姓が共に住む最良の住宅地に王宮があ」り、王宮の北微東(東の方角の少し北側の部分)の区域には、「学匠と宮廷祭僧(の住居)・祭式の場所・貯水場があり、また顧問官たちが住むべきであ」り、南微東の区域には、「厨房と象舎と糧食庫があ」り、「その彼方に、香・花環・飲料の商人、化粧品の職人、及びクシャトリアたちが、東の方角に住むべきである」とされる。東微南の区域には、「商品庫、記録会計所、職人居住区があ」り、西微南の区域には、「林産物庫と武器庫が」あり、「その彼方に、都市の穀物を商う人々、工場監督官、軍隊の長官たち、調理食・酒・肉の商人、遊女、舞踊家、及びヴァイシャたち」が住むべきとされる。南微西の区域には、「驢馬と駱駝の小屋、作業場があ」り、「北微西の区域に、乗物や戦車の車庫があ」り、「その彼方に、羊毛・糸・竹・皮・甲冑・武器・楯の職人、及びシュードラたちが、西の方角に住むべきである」。西微北の区域には、「商品と医薬の貯蔵庫があ」り、「東微北の区域に宝庫と牛馬(舎)があ」り、「その彼方に、都市と王の守護神がまつられ、金属と宝石の職人、及びバラモンたち」が住むべきであるとされる。「住宅がとぎれた空き地には、組合と、他国から来た商人の群が住むげきである」。都市の中央に、9神殿を建て、「それぞれの地域に応じて、住宅地の守護神を設置」するとし、濠の外側には、「聖域、聖場、森、灌漑設備」を建設した(カウテリヤ『実利論』上、102−3頁)。かなり濃密な分業関係を持った大都市である。

 さらに、紡績長官は、「糸・鐙・衣服・縄の仕事を、それぞれの専門家に行わせるべきであ」り、農業長官は「農学・水脈学・植物医学に通じ、あるいはそれぞれの専門家に補佐され、一切の穀類・花・果実・野菜・球根・根・蔓草の実・亜麻・綿の種子を、適切な時期に集めるべきである」とされる。農業については、「(雨量に応じて)多量の水を必要とする穀物と少量の水で足りる穀物とを蒔かせるべきであ」り、第一の期に種蒔きするのは「シャーリ米、ヴリーヒ(Vrihi)米、コードラヴァ、胡麻、プリヤング、ウダーラカ、ヴァラカ」、第二の期に種蒔きするのは「ムドガ、マーシャ、シャインビヤ(いずれも豆類)」、「最後に種を蒔く」のは「紅花、レンズ豆、クラッタ、大麦、小麦、カラーヤ、亜麻仁、芥子」であると詳細に述べられている。小作制については、「種蒔きせずに残った土地を、収穫の半分を受け取る(という契約で)小作人に耕せるべきである」としており、農業生産力が大きかったからこそ、こうした地主小作制も展開していたことが推定される。農業企業家の存在にも言及しており、彼について、「(収穫の)四分の一か五分の一の配分率で、自己の労働で生活する者たちに(耕させるべきである)」ともしている。こうした農業企業家らが灌漑用水を開削していたようであり、灌漑用水代金については、「自己の灌漑用水から(瓶などを用いて)手で運んだ水の料金として(作物の)五分の一を払うべきである」(カウテリヤ『実利論』上、185−9頁)としている。

 第五巻秘密の行動では、当時の多様複雑な臣下の実態と俸給がふれられている。まず、基本的には、臣下の俸給を十分に支給して「煽動」「謀反」の芽をたつ事を趣旨として、「行政官・学匠・顧問官・宮廷祭僧・将軍・皇太子・王母・王妃は、四万八千バナを受ける」とした。さらに、「任務に励む」ために「門衛長・王宮守備官・執事長・主税官・守蔵官は、二万四千バナを受け」、「主君の忠実な従者、協力者」にするべく、「王子・王子の母・司令官・都市の裁判官・工場長・顧問官会議・地方長官・国境守備官は一万二千バナを受け」、「集団を率いる」ために、「武士団の長・象隊と騎兵と戦車隊の長・司法官は、八千バナを受け」、「歩兵と騎兵と戦車隊と象隊(を管理する)長官・物資林と象林の守護官は、四千バナを受け」、「戦車の馭者・象の御者・医師・馬の調教師・建築家・動物飼育係は、二千バナを受け」、「占者・前兆学者・占星家・プラーナ学者・吟遊詩人・讃嘆者・宮廷祭僧」の部下・すべての(部局の)長官は、一千バナを受け」、「技能をそなえた歩兵や、会計官・書記官などの集団は、五百バナを受け」、役者250バナ、楽器製造者は500バナ、職人・工芸家120バナ、「四足動物や二足動物の世話をする召使」・従者・付き人・番人・「労働者の頭」、「アーリヤに監督された騎手・侏儒・山師」「一切の従者」は60バナ、各種スパイは250−1000バナ(カウテリヤ『実利論』下、24−6頁)を受けるとした。実に多大な臣下が存在しており、これを養うだけの経済力が米作を基軸とする諸産業によって国家には備わっていたということである。

 臣下遺族年金制度もあり、「彼等(臣下」が勤務中に死んだ場合は、息子と妻たちが食糧と俸給とを受けることができる」とした。米作を基幹とした諸産業の勃興で国庫が豊かになったからこそ、ここまでできるのである。故に、「国庫の乏しい王は、林産物・家畜・耕地と、わずかの金銭を与えるべきである」(カウテリヤ『実利論』下、26頁)ということになる。

 君主論 こうした多大な臣下の上に立ち、膨大な国民の信望を得るために、君主の徳望が必要だとされる。

 こうした「君主の要件」は、「偉大な家柄。幸運・知性・勇気に恵まれている。長老に会って(よく意見を聞く。敬虔である。真実を語る。言行一致。恩を知る。寛大である。大なる気力を有する。仕事を迅速に行う。隣国の王が弱小である。不屈の精神を有する。優秀な協議会を有する。修養を望む」とし、「以上が人をひきつける徳性である」と主張した。さらに「智慧の徳性」(「学ぶ意欲、聴聞、理解、記憶、認識、肯定的・否定的論究、真理に専念すること」)、「気力の徳性」(「勇武、憤慨、迅速、巧妙」)、「人格的な要件」(「雄弁、大胆。記憶力・知力・体力を有する。気高い。容易に善導され得る。技能に通達している。悪徳に耽らない。軍隊をよく導く。有益・有害な行為によく対処する。恥を知る。災禍の時と通常の時とに適切な行動をとる。長く遠く見ることができる。適切な場所と時間に雄々しい行為により重要な仕事をなしとげる。和平と戦闘・放棄と自制・条約[を守ること]と敵の弱点を判別する。秘密を守る。卑しく笑わない。横目で見たり眉をひそめて見たりしない。愛欲・怒り・貪欲・頑固・移り気・暴虐・中傷がない。やさしく語る。微笑みつつ威厳をもって話す。長老の助言に従って行動する」)(カウテリヤ『実利論』下、42−3頁)などを涵養せよとする。こうして、戦国時代の中で、君主の道が求められたのは、中国と同じである。

 こうした君主の置かれた複雑な当時の国家関係について、カウテリアは、「人格と物質的な諸要素をそなえた王は、良い政策の依り所であり、征服を欲し得る。その王の周囲に、円状をなして存する、直接の隣国が、『敵』構成要素である。同様にして、隣隣国が『友邦』という構成要素である」と、敵味方関係を触れる。そして、敵国について、「敵の要件をそなえた隣国の王が敵である。災禍に陥っているものが『可進攻国』である。寄る辺がなかったり、弱小の寄る辺しかないものが、『殲滅さるべきもの』である」とする。友好国については、「その(敵の)前方に、友邦、敵の友邦、友邦の友邦、敵の友邦の友邦が、領土的に順次に隣接して続く。後方に、背面の敵、背面の友邦、背面の敵の友邦、背面の友邦の友邦が続く」と述べる。そして、「隣接国は『本来的な敵』である。同じ生まれの者は、『同胞の敵』である。敵対したり、敵対させる者は、『人為的な敵』である」とし、「(当面の)敵と征服者との隣接国で、連盟を結ぶ時も結ばない時も両者を援助する可能性を持ち、また連盟を結ばない時は両者を抑圧する可能性があるのが、中間国である」とする。最後に、中立国について、「(当面の)敵・征服者(指導者)・中間国の圏外にあり、(それらの)構成要素よりも強力で、連盟を結ぶ時も結ばない時も敵国・征服者・中間国を援助する可能性を持ち、また連盟を結ばない時は彼等を抑圧する可能性があるのが、中立国である」(カウテリヤ『実利論』下、47頁)とする。

 バラモンの特権的土地所有 古代諸王朝の王は、バラモンと諸寺院(ヒンドゥー寺院、仏教サンガ、ジャイナ教寺院)に「村落あるいは土地を付与し、租税免除などの特権を与え」、一般にはアグラハーラと呼ばれ、バラモンに付与された村落・土地はブラフマデーヤと呼ばれ、ヒンドゥー寺院に与えられた村落・土地はデーヴォダーヤと呼ばれた。こうした「村落や土地の付与」は、320年グプタ朝以降、@「バラモンが宗教的権威と社会的特権とを十分に確立」し、「ガンジス上・中流域以外の諸地方に進出」」し、A諸王朝がバラモンの利用価値を認め、B4世紀頃から「ヒンドゥー寺院がさかんに建立され、諸王朝によって庇護」されたので、著増した。4−12世紀には、王が村落・土地付与と租税免除特権を記した銅板文書が多数作成され、発掘された(山崎利男「四ー十二世紀北インド村落・土地の施与」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年、45ー7頁])。

 アショカ王 マウリヤ王朝第三代アショカ王(前273年ー前232年頃)は、「デカン東部のカリンガ」、「南インドのキストナ川流域」、「西方はアフガニスタン東部」、「北方はカシミール・ネパール」までを支配した。カリンガ征服に際して、「流血の惨事」を経験して「仏法に帰依」(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』39頁)したといわれる。当時、インドでも君主は徳を持つことが求められており、その君徳の具体的内容が仏教では具体的に述べられていたということでもあろう。

 しかし、領地は、中央の直轄地、「地方総督の統治する西北・西・東南・南の四区域」からなり、「中央集権は不徹底」であり(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』36頁)。君徳だけでは統治は不十分だということである。その結果、アショカ王死後、@「中央集権体制が不備」で「アショーカ王の没後はその諸皇子が広大な領域を分割」し、A「集権体制を支えるべき軍事力も経済力も共に弱まって」、帝国は滅びた(和田久徳「インド文化の展開[山本達郎編『インド史』39ー40頁)
                                     

 マヌ法典 『マヌ法典』が、「第二期のスムリティの最古を飾り、およそ紀元前二世紀から紀元後二世紀の間に、前代のダルマスートラを引き継いで編纂され」「その後のヒンドゥー教世界の聖典」(渡瀬信之訳『マヌ法典』東洋文庫842、平凡社、2013年、500頁)となった。以下では、この時期に、民間にいかに多様な職業が展開し、それを統治するために王がどのように把握されていたのかを中心に見てみよう。

 まず、富の蓄積に基づき多様な民間職業が展開した。そのことは、第三章「家長の生き方」で、@農牧漁業従事者(「樹木を育てる者」、「牧夫」[「羊飼い」、「水牛飼い」、「象、牛、馬あるいは駱駝の調教者」]、「鳥の飼育者」、「鷹を飼って生活する者」、猟師)、A工業従事者(「造り酒屋」、「大工」、「弓矢作り」、「鍛冶屋」、「金細工師」、「竹細工師」、「皮革職人」、油絞り)、B専門職従事者(医者、「武芸の師」、「歌舞芸人」、「吟唱者」、「歌手」、「舞台役者」、「航海に出る者」)、C商業従事者(油を売って[生活する者]、商いをして生活する者、「高利貸」、「調味料売り」「武器売り」、酒屋)、Dサービス・雑業従事者(「賭博で生活する者」、遊女屋、「占星を生業とする者」、屠者、「犬の調教師」、「洗濯屋」)、宗教家(神像に仕える寺院祭官)等とあることから確認される(渡瀬信之訳『マヌ法典』109−111頁、142−161頁)。実際には、この数十倍の生業が展開していたのであろう。

 なお、「富の蓄積は、糊口をしのぐだけを目的とし、非難されない自らの職務に従事して、身体を苦しめずに行なうべし」(渡瀬信之訳『マヌ法典』130頁)と、過度の財産形成を否定している。さらに、「いっさいの清浄の中で、富に関しての清浄は最高であると言われている。なぜならば、富に関して清浄である者は清浄であるが、(ただ単に)土や水によって清浄となっても(真に)清浄ではないからである」(渡瀬信之訳『マヌ法典』185頁)ともしている。インドでは、富については、清浄の観点からその過度が批判されていたのである。

 次に、こうした民間を「統治する王についても、具体的に述べられている。第七章「王の生き方」では、「この世界が王を欠いて、至るところで恐怖のために混乱に陥ったとき、主はこのいっさいの守護のために王を創造した」、と、主が世界守護のために王を創造したとする。そして、王が、「それらの神々(インドラ、風神、ヤマ、太陽神、火神、ヴァルナ、月神、富の主」)の中の王たちの要素から創られたことによって、生類のいっさいを威力によって圧倒」し、「王は・・人間の姿をした偉大な神」と、神格化された。しかし、「「謙譲がある王は決して滅亡しない」が、「謙譲のなさから、多くの王たちは財産もろとも滅び去った」(渡瀬信之訳『マヌ法典』214−9頁)とされ、謙譲の徳なき専制君主を戒めている。

 王政については、@「教えに通じ、勇敢で、戦闘に長じ、家柄の良い七人もしくは八人の側役を任命すべし」、A「盛大な繁栄を有する王国の場合、補佐なしには(統治は困難である)」、B「彼らとともに日々同盟と離反に関する一般について、(また国家の)基盤、歳入、防衛、獲得したものの保全について思案すべし」と、側近の重要性を指摘する。そして、都城は「武器、富、穀物、搬送具、ブラーフマナ、職人、機械装置、牧草、水を備えているべし」とした上で、武力の必要性・重要性について、@「武力によって未獲得のものを求めるべし。獲得したものを注意して保有すべし。保有するものを収益によって増やすべし。増やしたものをふさわしい受け手に寄託すべし」、A「常に武力を行使し得る状態にしておくべし。常に武勇を誇示すべし。常に秘密は隠しておくべし。常に敵の弱点を追求すべし」、B「武力を行使し得る者に常に全世界は縮みあがる。それゆえにいっさいの生き物を武力によって服従させるべし」(渡瀬信之訳『マヌ法典』221−8頁)とされる。まだまだ、弱肉強食の国内情勢の中にあって、過渡的な王政の安定化には強大な武力は必要だったのであろう。

 領国の統治については、@王が「不注意」で「領国を苦境に陥れる」時には「一族もろとも王権と生命を失う」、A「領国を苦しめることによって王の命もまた滅ぶ」、B村内に兵団を配備し、各レベル村長(1、10、20、百、千カ村)は「もめごと」を上級村長に報告し、報酬を受け、国王側役が村長検分すると(渡瀬信之訳『マヌ法典』229−231頁)、善政を説いた。この「善政」のもとに、インド農村は権力収奪機構に編入され、権力を支えることになった。これに関して、ブローデルは、インドでは「村落生活は、多種多様の上級行政機関とか、またその生活を監督し、そこから余剰生産物を吸い上げ、貨幣経済の利便と危険とを押しつけてくる各種の市場とかが枠組みをつくっていて、通則として外部に向かって開かれ」、こうした農村生活が「基盤からしてまるごと捕捉されて、インドという社会的・政治的巨体を温め、また養っている」(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU 世界時間2、みすず書房、1996年、152−3頁)と指摘した。

 この過程で肥え太ったのがバラモンであった。王の徴税率は、利益の2%(「家畜」「金」)、利益の8−16%(「穀物」)、利益の16%(樹木、肉、蜂蜜、香料、薬草、調味料、花、根、果実、野菜、皮革、藤製品、土器、石製品)とする。そして、王は、シュロートリヤ(バラモンの職能)に課税したり、「飢えで衰弱」させてはならない。王が、シュロートリヤを守護すれば、「王の寿命と富と領国は栄える」(渡瀬信之訳『マヌ法典』232−3頁)とした。

 また、「王が自ら事件の審理を行わないときは、学識あるブラーフマナを事件審理のために任命すべし」とし、「彼(ブラーフマナ)は三人の陪席判事を従えて最高法廷に入り、座るなり立つなりして彼(王)に代わって事件を審理すべし」(渡瀬信之訳『マヌ法典』247頁)とした。こうして、バラモンは、権力から特権を認められ、腐敗すべくして腐敗していった。

                                       D ガンジス文明と諸文明

 ガンジス文明は米作などで長江稲作文明の影響を受けたのみならず、インダス文明の影響もうけていた。つまり、先行のインダス文明がなければ、ガンジス文明の生起時期はもっと遅れたであろう。その意味では、メソポタミア文明は、ヨーロッパ文明の生起のみならず、インダス文明を介してガンジス文明生起に間接的に影響を与えていたとも言える。

 それだけではなく、ヒンドゥー教における沐浴の重視、菩提樹の神聖視、シヴァ神などはインダス文明に源流をもっているように、インダス文明は以後のインド文明に深く関わってもいるのである(辛島昇ら編『インダス文明』195−201頁)。

 また、ガンジス文明の生んだ仏教は、各文明の宗教に大きな影響を与えたのであり、仏教には、人類普遍的な道徳とともに、権力迎合的な側面もあって、仏教は各地に普及していった。なぜ誕生地のインドでは仏教が衰退したのか、なぜ教義と普及方法で仏教とキリスト教とは類似しているかの問題などは、ここでは問わない。


                                     3 インド中世の展開 

 中世 これを経由して、6世紀以降北インドは『中世初期』(early medieval age)(6−12世紀)と称される時代に入」り、「この『中世初期』、とくに8−12世紀は領主制・カースト制の形成、地方言語の確立など、植民地前インド社会の構成要素が形成される時期であり、中世社会の形成期と目され」、「そのため、『中世初期』における生産力の上昇が諸研究者によって想定されており、これまで中世社会形成期の生産力発展の内容が探られてきた」(三田昌彦「前6−後3世紀ガンジス川中流域の稲作法」『名古屋大学東洋史研究報告』16、1992年)と言われる。ガンジス中流の稲作が、インド史の起動力だったのである。

 6−7世紀の「カラブラ族を打ち破って台頭したパッラヴァ朝の社会」では、「種族的あるいは氏族的紐帯は弱まり、北インドのグプタ朝で完成せしめられた新しいブラフマニズムによる社会秩序がその影響を及ぼし始め」、「チョーラ朝期に見られるような村落共同体はこの時代に形成されてきた」(辛島昇「南インド社会の歴史的発展」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年、104頁])。

 9−13世紀のチョーラ朝期、王朝は、「カーヴェり=デルタ地帯の地の利を占めて、その地方領主として出発しながら勢力を伸ばし、各地の同様の領主層を服属させつつ、ブラフマニズムの理念によりながら、他の王朝とは異なった新しい統合の方法を生み出して支配を行」ない、領主層を「単なる行政的な機能をもつ者の位置にまで落」とし、「共同体的な性格を強くもつ村落が中央権力の支配に直接さらされる形が出現した」(辛島昇「南インド社会の歴史的発展」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』104頁])。

 しかし、ムスリム侵入を背景に、「村落の増加」や「寺院領の拡大」などで、「私有地の増大」が原因でチョーラ朝は滅亡した。「チョーラ朝の滅亡からヴィジャヤナガルの出現に至る一世紀の間は、北インドからのムスリム勢力の侵入によってもたらされた非常な混乱と社会の変動の時代であったが、その過程でそれらの領主間の統合がすすみ、その支配は強化され、新しい秩序(「軍事的支配者ナーヤカによるヴィジャヤナガルの支配機構」については「多くの研究者が封建制との類似を指摘」)が確立」(辛島昇「南インド社会の歴史的発展」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』104頁])した。

 封建制の評価 当時、インドでは、「国家の収入の主源泉は、土地からの税収」であるから、「商業への課税」よりも重要であり(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』187頁)、農業が基幹産業であったことはいうまでもない。

 こうしたインド農業の展開に対して、シャルマ(R.S.Sharma)は、「5−15世紀のヨーロッパ史から抽出したところの『封建制』の特徴として、@土地の基礎の上に立てられた全政治組織、A王と耕作者との間に存在した中間階層(intermediaries)の土地所有、中間階層に現物地代を払い労役を供する義務をもち土地に結び付けられた農奴、B地域における自給自足的な経済の三点をあげ、この意味における『封建制』がインド史においてグプタ朝期から成立した」とした(山崎利男「四ー十二世紀北インド村落・土地の施与」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年、39頁])。シャルマは「バラモンに対する村落・土地の施与を重視した」のである。そして、「4−12世紀の時代を『封建制』成立期(約300−750年)、プラティハーラ、バーラ、ラーシュトラクターの三王国の抗争期(約750−1000年)、『封建制』最盛期(約1000−1200年)の三期に分」けたのである(山崎利男「四ー十二世紀北インド村落・土地の施与」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年、38頁])。

 一方、コーサンビーD.D.Kosambi)は、「『上からの封建制』と『下からの封建制』とに分かち、前者は、皇帝あるいは有力な王に従属しながら自己の領域を直接に支配した階層(subordinate)を指標とし、後者は前者の次の段階で、村落において発達して、国家権力と直接に関係をもち軍事的奉仕の義務を負い、租税を徴収して、しだいに地域の人民に軍事的権力を行使するようになった土地所有者階級を指標としている」(山崎利男「四ー十二世紀北インド村落・土地の施与」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年、39頁])。

 さらに、「13世紀初頭から18世紀末葉に至るいわゆる『中世インド』の土地制度」に関して、絶対的専制君主説(W.H.モアランド)と「土地の私的権利は通常、個別農民に所属」したとする説(P,サラン、I、ハビーブなどインド人)がある(深沢宏『インド社会経済史研究』東洋経済新報社、1972年)がある。

                                     4 ムガール帝国の繁栄
 
 農村の支配と収奪 ムガール帝国(1526年ー1858年)では、米以外の多様な商品経済が展開し、その収奪機構が整備された。1526年ムガール帝国は、「14世紀におけるスルタン支配の・・強制的行政組織」を引き継ぎこれで農村の余剰生産を捕捉しようとした(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、153頁)。

 ムガル帝国のムスリム的専制主義には「啓蒙的専制主義ともいうべき性質」があり、農民再生産に留意し、耕地拡大、商品作物奨励、未開拓地の拓殖、灌漑促進などに従事した。行商人らが、「近隣の小さな町々の市」、「食料品の物々交換を目的として設置された市」、「多少とも遠く離れた町々を羨望する市」、「宗教的祝祭と結び付いた大市」を行き交った(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、153頁)。

 村々の維持運営に従事したのは、「州および地域の当局」、「ムガル帝国皇帝から領土の貢租の一部分を受け取った領主たち(知行地は3年間支給され「はずかしげもなく知行地を搾取」、デリー居住)」、「徴税人」、「土地に対する世襲的権利を有するzamindars」、「収穫物を買い入れ、輸送し、売却し、さらにまた税金と貢租とを金銭に替えて、その総額を自在に流通させる商人・高利貸し・両替屋」などである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、153−5頁)。

 村の構成員は、「特有の階層性度とカースト・システム」におかれ、支配者(村長、少人数の貴族=富裕地主。彼らは「特権を享受し、家族労働力を用いて自力で耕す個人用の畑を所有するのと引き替えに、村全体の税金の支払いについて国家にたいして連帯責任を負うていた」。しかし、権力は地主小作の展開は税収減少を懸念して、彼らを「厳重に監督」)、「固有の職人」(「カーストによって役割を永続的に固定されており、彼らの労働の対価として村全体の収穫から一定の割合をもらい受け、そのほかにわずかばかりの耕地を有していた」)、「農民」(奴隷・農奴ではなかったが、「従属」的身分。農民所得は生産物の約5割。17世紀人口増加を彼ら農民の窮状と高生産性が支えた)(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、155−6頁)。

 インド農村の二面性 17世紀インド農村には二面性があり、つまり「直接生産者の生み出す剰余生産物のほとんどすべてが、貢租ないし地代の形で徴収されてい」て、「商業・信用機構の発達、貨幣経済の一般化といっても、この貢租流通経済の限界内における現象だった」(松井透「ムガル支配期の土地制度の権力構造」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年、170−1頁])。

 しかし、その一方では、「ムガル支配期のインド経済は、農産物・農産加工品のかなり広汎な商取引によって特徴づけることがで」き、「綿製品・絹・アヘン・香辛料・砂糖・アイ・タバコ・油脂・野菜・果実・米・麦など」が取引きされ、「この期間を通じて、農民は、市場における農産物価格の動向にたいし、敏感な反応を示し、有利な作物の作付面積を増加させ、新作物を新たに栽培する傾向をかなり顕著に見せて」、「農産物の商品化される割合もかなり高」(松井透「ムガル支配期の土地制度の権力構造」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』東大出版会、1969年]169頁)かった。また、「ヨーロッパ商人の手を通ずる銀の流入の増大は一般の物価を、ことに農産物の価格を、継続的に上昇せしめ」、「商業高利貸資本は農村地帯にまで触手をのばし、金融・保険・信用制度は高度の発展を示し」たのであった(松井透「ムガル支配期の土地制度の権力構造」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』169頁])。

 もちろん、「この時代においては、主要生活必需品の地域的自給性が高く、「農村における直接生産者の生産・消費の日常生活に、商品経済のふれる度合はきわめて低かった」。まだ農村の「生活水準は低く」、農民の生活は「最低水準に抑えられていた」(松井透「ムガル支配期の土地制度の権力構造」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』169ー170頁])。もとより、これはインドだけに特有なことではなかった。

 こうした展開を受けて、当時の農村構成員は、「地主・富農的階層、自作農、小作農、他村から来てその村の土地を耕しているよそものの小作農、無権利な任意小作農、そして農業労働者」と、多様であった(松井透「ムガル支配期の土地制度の権力構造」[松井透・山崎利男編『インドにおける土地制度と権力構造』188頁])。

 インド農業の優越性は、@「15世紀から18世紀にかけて、・・最上の土地だけ」を耕作し、「インド農民の一人当たり生産性」はヨーロッパ農民より高かったこと、A「二毛作(米、小麦が二度収穫され、そのほかにえんどう豆、エジプト豆、植物油が取れた)とは別に」、輸出向けの換金作物が高比率を占めていた事などであった(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、156−7頁)。

 農民大衆は「明らかに貧困だった」が、ムガール帝国の繁栄には「農民の繁栄」が必要だったので、「農民に最小限の繁栄を保たせた」が、18世紀になると、万事悪化し、「国家も、行政官の服従心や忠実も、輸送の安全も、おしなべて劣化」し、「農民の反乱が続けざまに起き」た(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、158頁)。

 ムガール帝国の脆弱さ インドは、中国同様に大国であるが、絶えず中国以上に勢力の強弱・盛衰に悩まされて、政治的統一の持続が困難であった。

 インドでは、17世紀後半、ムガール皇帝アウラングゼーブ(ムガル帝国の第6代君主)はデカンのマラーター王国、パンジャブのシク教などの反乱に直面し、かつ「帝国は、ヒンドゥ貴族に対して排他的な臣従を受け入れさせる」ことにも失敗し、「政治的分裂が『中部および南部インドにおける常態』として続く」ことになった。中国とは異なり、南アジアでは、「統一的帝国の不在」であり、在地貴族は強力な軍事力をもって「地方市場の中心を支配」し「自らの王朝を打ちたてよう」とした。固より豊かなインドには対外侵略の必要は弱かったが、こうして辺境からの侵略危機、内部の独立危機にあって、帝国は対外拡張することを困難としていた(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』187−8頁)。

 さらに、エリック・ミランは、商人資本が抑圧された南アジア政体では、「ヨーロッパ資本主義の介入がなければ、資本主義の内容的発展はきわめて可能性の低」く、こういう商人階級の脆弱さのゆえに、西欧列強は、「徐々に輸出貿易を支配下に収めていき、最終的には、植民地化に成功することができた」(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』197頁)とする。だが、インドでは商人階級が成長していようがいまいが、商人階級には西欧資本主義をはねのける力などがあるはずはなかった。日本の場合を見てもわかるように、西欧の政治的介入を押し止めたのは、政治的統一と軍事力の維持、先端にマヌファクチュア的発展を背景とした巨大商人の動揺・展開、士族らの「外夷」排撃エネルギーの存在なのである。商人だけが決め手ではないのである。


                                       第三  インド人口


 インドも中国同様に「外部からの異民族の侵入」があったが、「本人の業が運命を決定する」と言う宗教意識で現状打破の意欲が弱いこと、「中華意識のような民族の膨張の衝動はなかった」事などから、「カースト的秩序」によって特筆すべき内乱はおきず、人口変動の上下の幅は中国ほど激烈ではなかった(湯浅赳男『文明の人口史』164頁)。

 J・M・ダッタは紀元前320年(ガンジス河流域のマウリア王朝のチャンドラグプタ時代)の人口は1億8100万(J.M.Datta,Populstion India about 320BC,Man in India,vol.42,n.2,pp,277-291)と推定し、P・ナートは紀元前232年(マウリア朝アショカ王時代)の人口を1億から1億400万と推計している(P.Nath,A study in the Economic condition of ancient India,Royal Asiatic Society,London,1929)。これが事実とすれば、「インドは紀元前に世界一の人口に到達」(湯浅赳男『文明の人口史』166頁)したことになる。溜池などによる「灌漑によって米作が飛躍し、人口も増大した」(湯浅赳男『文明の人口史』166頁)ようだが、この時期にガンジス流域の米作のみで1億人を扶養できたのであろうか。

 一方、デュランドは、インド人口規模について、紀元14年7000万人、1000年7000万人、1200年7500万人、1500年7900万人とし、モアランドは1600年1億人(165頁[John D.Durand,Historical Estimates of World population:An Evolution,Population and Development Review,vol.3,n.3,September 1977,])と推定している。紀元前に1億人以上に達していたとすれば、紀元前後に人口が急減したことになるが、アショカ王の統治で相当な殺戮がなされたが、以後、そういうことはみられない。「ガンジス河流域の開拓の結果としての山野の荒廃、それがひき起こした飢饉」(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、163頁)があったとか、「森林が焼却されて牧場化を行ったことで、保水能力を失った大地が水害や旱害をひき起こし飢饉をもたらした」(湯浅赳男『文明の人口史』新評論、1999年、160頁[Atindranath Bose,Social and Rural Economy of Northen India.600BC-200AD,Mukhopadhay,Calcutta,1961,pp.116-128])とも言われているから、相当な飢饉があったのかもしれない。だとしても、人口急減の度合いが大きすぎて、この点からも紀元前の人口1億人は過大と思われ、この真偽は後考をまちたい。その後、1750年に1億人に達し、1900年2億8300万人、1975年7億4500万人に及んでいる(John D.Durand,Historical Estimates of World population:An Evolution,Population and Development Review,vol.3,n.3,September 1977)。A.G.フランクも、1750年1億3000万ー2億人へと増加したとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』178頁)。

 なお、ベネットは、1000年4800万人、1100年5000万人、1200年5100万人、1300年5000万人、1400年4600万人、1500年5400万人、1600年6800万人と推計し(湯浅赳男『文明の人口史』167頁[M.K.Bennett,The World's Food Harpers,New York,1954])、16世紀までには1億人に達していないとしている。

 5世紀にグプタ朝が崩壊すると、「ふたたび北方から遊牧民が侵入し」、16世紀の初めに「モンゴル系にしてトルコ=ペルシア化した分子よりなるムガール王朝がふたたびほぼ亜大陸を統一するまで、多くはイスラーム系であるさまざまな勢力の王朝が乱立し、興亡する」が、湯浅氏は「この間もヒンドゥー的な社会秩序が厳然と存在し続け」たので、人口停滞が生まれたと推定している(湯浅赳男『文明の人口史』167頁)。


                                   
                                   


   

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